2017-10

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「十六日」の水脈=不用意な夫達=

―資源としての宮沢賢治―

この欄では、宮沢賢治を専門としていない教員会員の視点から、「資源としての宮沢賢治」として、自由にお書きいただく予定です。
投稿、お待ちしております。

第一回は、日本近代文学が専門領域の関谷由美子先生です。

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「十六日」の水脈
 =不用意な夫たち=


 宮沢賢治が、女性を、または対なる関係をどのように見ていたか、素朴な疑問があった。小説「十六日」は、短いものではあるがそれに十分に応えてくれる内実を持つ。結婚して三年ほど経った、子のない夫婦の、年に幾度もない休日の日に起きたささやかないさかいを通じて、男女関係が潜在的に孕み持つ危うさ、あるいは何気ない日常が孕む「惨劇」の予兆を、夫の意識を叙述上の関心の中心において鋭く切り取っている。そう考えれば「十六日」は、志賀直哉「雨蛙」「暗夜行路」などに連なる世界であると言いうる。また夫婦という自閉的関係に外部が侵入し、関係に変化が生じる、という物語パターンに注目すれば、太宰治「魚腹記」が連想に浮かぶ。「魚腹記」も、少女スワが、都会から昆虫採集に来た学生を見たことから父娘の関係(閉じた関係)に亀裂が生じたのであった。「十六日」のドラマは、嘉吉とおみちが遅い祝日の朝餉につこうとした時、化石採集の学生が彼らの家の戸を叩いたことから始まる。

 嘉吉の意識は、学生に自分たち夫婦と同じ膳を進め、細やかな心遣いを率直に示すおみちの挙措動作にぴたりと照準を当て、観察している。「門口で若い水水しい声が」した時から嘉吉の「眼はじっとおみちを見て」いる。学生が心ばかりの礼に「敷島」と「キャラメル」を置いて立ち去った後、知り合ってから「わづかに二度」しか見ていないおみちの「娘のような顔色」、「ぼんやり」した風情に対して嘉吉は嫉妬を爆発させ泣かせてしまうが、一転して今度は「可哀想」になったおみちを次のような言葉でなだめにかかる。「誰だってきれいなものすぎさな」「な、すぎだべ」と。「子供のようにうなずく」おみちに嘉吉はさらに、自分が彼を追いかけて連れてくる、と言い、「おれ実家さ行って泊って来るがらうなこっちで泣いて頼んでみなよ。おれの妹だって云えばいいがらよ」と煽ってみせる。「おみちの胸はこの悪魔のささやきにどかどか鳴」る。しかし「いきなり嘉吉をとび退いて」おみちは「何云うべ、この人あ、人ばがにして。」と、「爽やかに笑」い、夫婦にも笑いが戻る、という結末である。しかし「一度起こったこと永久に続くのさ」(夏目漱石『道草』大正四)という〈呪文〉めいた言葉の力は、賢治が捉えたこの夫婦関係にも谺している。嘉吉はおみちに何をしたのか。純朴なおみちの欲望を目覚めさせた。おみちの中に潜在していたもの、膨大な可能性の中の一つにしか過ぎなかったものを、嘉吉はわざわざ選びだし顕在化させ意識させた。イヴを誘惑する蛇のように、「きれいなものすきだべ」「こう云うごとほんと云うごそ実ぁあるづもんだ」という「悪魔のささやき」で。おみちはそれが自分の「ほんと」であると夫に誘導され自覚したわけである。

  先に触れた志賀直哉「雨蛙」(大正一二)は、夫の代理として参加することになった、文学者の講演会の一夜、(おそらく)過ちを犯したらしい不用意な妻を、迎えに行った夫が発作的に「たまらなく可愛く」思い、その時、ふと見上げた電柱の小さなくぼみに「二匹で重なり合ふやうに蹲つて」「つつましやかな世帯を張つてゐる雨蛙」に気付き、「それが自分達の生活なのだ」と思うという結末である。「雨蛙」の示すこうした夫婦観は、遡って、夏目漱石「門」(明治四三)が描いた夫婦観とも照応している。テクストは互いに解明し合う。「門」はまさに、そうした「つつましやかな世帯を張つてゐる」夫婦を襲った危機の本質を、夫の意識下の操作によるものとして捉えた小説である。安井は、本当は妻であるお米を、まさに嘉吉の提言のごとく、宗助には「妹」だと紹介する。それによって安井は、妹なのだから遠慮はいらないと、暗に宗助を使嗾し、あえて三人にとっての「残酷な運命」(「門」十四)を呼び込もうとしたと推測できる。そして宗助とお米にも、「十六日」の結末と同様に、暗雲は過ぎ去り夫婦に元のような平穏が戻ったかのような外貌のもとに、夫の不用意(意識下における故意)がもたらす夫婦の危機は常に彼らの傍らにあることを示唆して終わっている。これらの「つつましやかな」夫婦の生活に、いつ「残酷な運命」に発展するかもしれない危機が、もはや避けられないものとして忍び入ってしまったのだ。

 嘉吉の「さ出来ればよ(おみちと学生が深い仲になれば)、うなも町さ出はてもうんといい女子だづごともわがら」は、不意に出現したライバルである「きれいな」学生に、おみちを欲望させ、その媒体(学生)を通じておみちの価値を確固たるものにしたい、という自らの意識の深層に巣食う欲望を露呈している。〈不用意な夫たち〉は、どのような代償が待ち受けようともこの欲望から逃れることができない。「こころ」(大正三)の、〈奥さん〉の危惧を退けて、親友Kを同宿させ〈御嬢さん〉に引き合わせた〈先生〉と呼ばれた男の心性も当然、例外ではない。
日常とは、〈惨劇〉を呼び込む時空間の謂であることをこれらの男たちは知っており、そうであるがゆえにそれを回避しようとは決してしないのである。「十六日」の射程はかくも遠い。

○「十六日」の引用は、ちくま文庫版「宮沢賢治全集8」に依った。

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 「文教賢治研究会」は、文教大学越谷校舎に発足しました宮沢賢治の研究会です。会員は教育学部・人間科学学部・文学部の教員,非常勤教員をはじめ、大学院生、学部生、研究生、卒業生の総勢39名。(2011.8.25現在)
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